統一教会を批判する人の愚鈍さ 「君たちは洗脳されている」と言い続けても何も変わらない理由【仲正昌樹】
人は物語を生きる存在である
■自分の人生に意味を与えてくれる「大きな物語」があるかどうか
統一教会は、聖書の物語と、目の前にいる個人の人生がリンクしやすいよう、原理講論・講義の構成と、勧誘している相手へのトークにかなり工夫しているのだと思う。MCの技術があるとすれば、そうした物語を調整する技術である。
それは、キリスト教をはじめ、いろんな宗教や思想団体が新しいメンバーを獲得し、古くからのメンバーを繋ぎとめるため多かれ少なかれやっていることだろう。教義を伝えるだけ、あるいは、人情的な会話をするだけで、信者を獲得できるのは、かなりレアなケースではないかと思う。教義の中で語られる神や仏の英雄的行為や試練、悲劇、勝利などが、その人自身の人生とリンクしているように見える(見せる)ことが、入信のカギになる。
統一教会は、一定の物語的な傾向を有している人、自分の平凡な人生が、実は世界史の大きな動きと連動していて、自分も何かの使命を背負っているのではないか、これまでの人生で経験してきた辛いこと、惨めだったことはその使命を果たせるようになるための試練だった、と思いたいようなタイプの人にとって、「これこそが私の生きる道だ」と思える物語を提供してきたのだと思う――私もそういうタイプだったのだろう。そういうヒーロー願望があまり強くなく、瞑想とか神秘体験に関心がある人にとっては、さほど魅力的ではないかもしれない。
そうやって各人の抱いている自分の人生の物語と、教義の物語が一致したことを示した後、それが実感できるような体験をさせる。統一教会の場合、布教と物売りの実践に重きが置かれるが、その教義を実践したことで、これまでの人生の経験が生かされたうえ、自分の限界が突破できたと本人が確信できるのであれば、どんな実践でも構わないだろう。
教義の中に神やサタン、霊界の話が出てくるのは荒唐無稽ではないか、どうして信じられるのか、と不思議に思う人は少なくないだろうが、宗教に関心を持つ人にとって、教義に科学的根拠があるかどうかなどというのは、はっきり言ってどうでもいい話だ。自分が抱いていた自分の人生に意味を与えてくれるような、大きな物語を与えてくれるかどうかが問題なのだ。統一教会の信者を勧誘する時のトークでも、教義の科学性はほとんど問題にしない。本人が、自分の物語と教義の物語が繋がっているように感じたら、それで十分なのだ。